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劉備と諸葛亮 カネ勘定の『三国志』 |柿沼 陽平|三国志の英雄は全員悪人!?

三国志に出てくる英雄たちは全員悪人だった!?歴史学者が語る常識を覆す三国志の事実。歴史学の手法で英雄たちの行動を紐解くと全く違う姿が浮き彫りに。本書で示される驚愕の事実とは如何に?

劉備の生い立ち

一七六、七年頃に盧植が廬江太守になると、劉備は故郷の楼桑里に戻ってきたらしい。そののち、劉備に大きな転機が訪れる。中山郡の大商人 張 世 平・蘇 双 らが馬を商いにやってきて、劉備と出会い、大金を貸しつけたのである。劉備は競馬が趣味なので、その関係で出会ったのではないか。もっとも、まだ何も成し遂げていない無名の若者への投資は不可解である。だが、当時じつは兄貴分の公孫瓚はすでに涿県の 県令(県の長官) となっていた。このことを 鑑みれば、事情はわからなくもない。おそらく張世平・蘇双は、劉備が地元の実力者・公孫瓚の弟分である点に配慮して、劉備に投資したのではないか。これに加えて盧植門下の肩書きが役立ったとする説もある(津田二〇一三)。ともあれこうして劉備は部下をあつめはじめた。そして出会ったのが、関羽と張飛である。

関羽は、字を雲長、もとの字を長生という豪傑。河東郡 解 県出身で、のちに涿県へ「 亡命」していたところ、劉備にスカウトされた。諸葛亮がのちに関羽を「 髯」というあだ名で呼んでいることから、ヒゲ自慢の人物であったのはたしかである。ヒゲなき劉備とは対照的だが、ヒゲコンプレックスをもつ劉備が関羽のヒゲをどのような気持ちでながめていたのかは、いまや知るよしもない。

ちなみに現在、博物館に展示されている関羽像などは、概して長いヒゲ、赤い顔で、緑色の服を着て、 青 龍 偃月刀 を携えている。だが赤い顔は忠義者の証、緑色の服は農民の象徴、青龍偃月刀は立派な武器の象徴で、ヒゲ以外は後世付加された伝説による。しかも、劉備と出会ったころの関羽はまだ二十歳前後で、ヒゲが生えそろっていたかも疑わしい。彼は、塩業で有名な解県出身で、元来、塩の闇商人であったとの伝説もあるが、年齢を考えると、これもあやしい。かりに塩商人との関わりがあったとしても、せいぜいその取り巻き連中のひとりといったところであろう。ただし彼の犯した亡命は、前漢初期には「罪名が確定しながらも逃亡中の者」、のちに広く「逃亡」を意味するようになった語で(保科二〇〇六)、関羽がいわゆるカタギでなかったことは想像がつく。

張飛は、字を益徳(『演義』では翼徳)といい、関羽同様に豪傑とされる。曹操の謀臣程昱は、のちに関羽と張飛を「一万人の敵に立ち向かえる人物」と評している。関羽は張飛よりも数歳年上であったので、張飛は関羽を兄と仰いだ。ちなみに『演義』などでは、劉備・関羽・張飛の三人が義兄弟の契りを結んだことになっている。たしかに三人はのちに同牀(同じ寝床で寝るほど)の仲となり、劉備は二人を「兄弟」のごとく愛しみ、張飛は関羽に「兄事」したらしいが、それを義兄弟とまでよべるかはわからない。また劉備は、張世平・蘇双らの融資を受けることによってはじめて関羽・張飛をスカウトできた。その意味で、劉備と関羽・張飛とのあいだには、夢のない話で恐縮であるが、もともと金銭関係が介在していた。三者が仲良くなるのは、あくまでもそのあとのことなのである。

劉備と関羽、張飛の間には金銭の授受が。なんとも夢のないお話だが実際のところその可能性は捨てきれないという。歴史は美談を残そうとする傾向にあるので致し方ないか。特に三国志演義ではその美化が激しい。故に話としては面白いのだが。

諸葛亮の登場

諸葛亮は十五歳のとき、叔父の諸葛玄に連れられて荊州にきて以来、二六歳になるまで、荊州で晴耕雨読の日々をおくった。当時、荊州を支配していた劉表は大酒飲みで、宴会では酔いつぶれた客の顔を針でさし、本当に酔っているか確かめたなどの伝説があり、一風変わった人物である(晋・楽資『九州記』)。だが一方で、学者たちを庇護し、一大サロンを形成したことでも知られる。 宋 忠 らを頂点とするこの荊州学派は、とくに儒学の面で大きな学問的成果を挙げた(加賀一九六四)。諸葛亮は間近でその学問にふれ、学問を保護する劉表にも敬意を払ったはずである。叔父諸葛玄は劉表の友人でもあった。

だが諸葛亮は、二十歳を過ぎても劉表に仕えなかった。その一因は、先述したように、叔父が殺害されたとき、劉表が助けてくれなかった点にあるかもしれない。また劉表は、ある件で正論を吐いた士人 劉 望 之 を殺害したことがあり、それ以降、一部の士人の信望を失いつつあった。とくに劉望之の弟、 劉 廙 は、身の危険を感じて逃亡した。劉廙は司馬徽にかわいがられた人物で、諸葛亮の兄弟子であった。その事件を目の当たりにした諸葛亮が、仕官にさらに慎重になったことは、十分かんがえられる。諸葛亮と名声を二分した龐統も劉表に仕えず、 周瑜 に仕え、周瑜の死後は劉備へ帰順した。

一方、劉備は挙兵以来、黄河流域と 淮水 流域を転戦し、幾多の戦功を挙げてきた。だが最終的には曹操に敗れ、二〇〇年頃に荊州へと逃げてきていた。彼は劉表の居候となり、対曹操戦線の防波堤として、荊州北端の新野城にとどめおかれた。劉備の支持者のうち、関羽・張飛をはじめとする任俠・戦友や、 麋 竺 をはじめとする元地主は、なおも劉備に従った。一文無しの彼らにとっては、いまさら劉備に乱世の舞台から退場してもらってもこまるのである。

だが、劉備と徐州牧時代につきあいのあった士人(陳登・孔融・陳羣ら)は、多くが曹操政権下で高位高官となることをめざして劉備のもとをはなれた。ゆえに劉備が居候状態を脱却し、新たに勢力を拡大するには、国家戦略を策定しうる知恵者が必要となる。そのばあい、国家戦略に有用な儒学などを修め、他の士人への人脈ももつ人物がふさわしい。そこで劉備は、まだ二六歳の諸葛亮を三度も訪れた。この「三顧の礼」には虚構とする説もあるが、後掲「出師の表」で諸葛亮自身が君主劉禪の面前でこれに言及しており、あえて疑う必要はない。これを機に、諸葛亮は劉備の熱意に打たれ、劉備の陣営に加わった。

三顧の礼は三国志の中では有名な一節。実際にも文献などを辿ると事実の可能性が強いという。現代で言えば営業が何度も商売相手の会社に通いやっと契約が取れたといった話で実際にはさして珍しい話でもないのだが(笑)

三国志にまつわるあれこれを歴史を紐解きながら辿っていく書籍。実際には当時どんな様子だったかが見えて来れば物語なのか史実なのか少し鮮明に。

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