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〈私〉時代のデモクラシー|宇野 重規|〈私〉と政治の関係をとらえなおし、これからのデモクラシーを構想する

個人が他にはない自身の生き方を模索する時代。切り裂かれた〈私〉と〈私〉を結びつけ,〈私たち〉の問題を解決するデモクラシーを発展させることは可能か?平等意識の変容と個人主義をおさえた上でこれからのデモクラシーを構想する。

現代日本における不平等意識の爆発

前節では「平等化」の時代に、それまで人と人とを隔ててきた想像力の壁が崩れていくと述べました。また、そのような時代に、人々の平等・不平等をめぐる意識がますます鋭敏化するであろうとも指摘しました。グローバル化によってもたらされた新たなる「平等化」の波こそが、現代における〈私〉の平等の意識の覚醒の基盤となっているのです。

このことを、日本社会に即してさらに検討してみたいと思います。現代の日本において、不平等意識はかつてない高まりを示しています。とくに二一世紀になって以降、「不平等」と「格差」は時代を象徴する言葉となり、「格差社会」がさかんに論じられるようになりました。背景にあるのはもちろん、拡大する経済的・社会的な不平等です。社会における所得配分の不平等を測る指標であるジニ係数は、一九八〇年代に最低を記録して以後(すなわち、もっとも平等度が高まって以後)、一貫して上昇し続けています。(相対的)貧困率についても、いまや日本はOECD加盟国中でもワーストクラスです。かつて「一億総中流」といわれた日本社会の平等イメージは、もはや見る影もありません。

しかしながら、現代日本における不平等意識の高まりは、経済的な指標に尽きるものではありません。再び、トクヴィルの平等論にもどりましょう。

トクヴィルは、古い貴族制の社会において、異なる身分に属する諸個人は、互いを自分と同じ人間とみなすことがなかったといいます。したがって、それぞれの生活や境遇がどれだけ違うとしても、そもそも自分と比較してみようとさえ思いません。もちろん、貴族制社会の人間が、平等・不平等の問題にまったく無関心であったわけではありません。ただ、人々の関心はむしろ、同じ身分に属する人間に対して向けられます。同じ身分の内部における違いについては、人々は敏感です。しかしながら、その想像力は身分の壁を越えることがありません。

これに対し、ひとたび平等化が進みだすと、人々の想像力はかつて自分を閉じ込めていた狭い集団の壁を越えるようになります。そうなると、これまでリアリティのなかった、壁の外にいる人間が急に自分の同類として浮かび上がってきます。当然、自分との違いも気になるようになります。ある意味でいえば、貴族制社会においては、自らの属する集団内部の関係はリアルであるものの、その外はぼんやりとしていました。これに対し、平等化が進むと、自分のすぐ隣にいる人との関係が希薄になるとしても、むしろ目の前にはいない大勢の人々の様子がひどく気になるようになるのです。

貴族制の社会において、身分間の壁はあまりに自明なので、その存在すら気になりません。これに対し平等社会において、身分制は空洞化するとしても、急激に可視化した残された不平等に対し、人々の意識は鋭敏になっていきます。

なぜ、このような話をするのかといえば、ここで指摘したようなメカニズムが、現在の日本にも働いているように思われるからです。もちろん、日本において、これまで身分制が存在したといいたいわけではありません。しかしながら、これまで仕切られていた人々の平等の想像力が、そのような仕切りを越えて展開するようになっているということは指摘できるのではないでしょうか。

いわゆる上級国民的な人々は日本にも存在する。ただ、最近では目に余るその横柄さから糾弾の的となることも多い。一度、犯罪や不正が発覚すると握り潰そうにもそれができない世の中に。国民の声がある意味届くようになったといえるかもしれない。人々の平等への意識の高まりは格差が進むにつれ肥大化していくものかと。

自己犠牲と徳から自己利益へ

それでは、「人生の意味を創出するメカニズム」であり、「希望の分配のメカニズム」であるはずの社会を、どのように回復、発展させていけばよいのでしょうか。ここで思い起こす必要があるのが、社会があえて国家と区別されるにあたって、強制や上からの命令によらない、平等な諸個人による自律的な秩序としてイメージされたということです。繰り返しになりますが、このような社会のイメージには、多分にフィクションが含まれています。とはいえ、このようなイメージに基づいて社会と国家が区別され、その区別の上に具体的に制度が構築されてきたのが近代の歴史です。また、法・政治・経済の諸制度のみならず、あらゆる社会科学が、平等な諸個人から成る社会が上からの強制によらずに自律することはいかにして可能か、というテーマを追いかけてきました。

したがって、平等化が進み、個人の〈私〉意識がかつてないほど高まっている現代において、いかにして平等な個人間のモラルを打ち立てるかについて、正面から考えておくことには意味があるはずです。平等な存在としての個人がいかなるモラルをもつとき、諸個人から成る社会は、上からの強制なくして自律できるのでしょうか。

出発点となるのは、やはりトクヴィルです。すでに何度も指摘したように、トクヴィルは不平等があたり前の貴族制社会から、平等を原則とする民主的社会への移行を歴史の必然とみなしました。もちろん、民主的社会においても不平等はなくなりません。しかしながら、不平等のもつ意味は、民主的革命の結果、まったく別のものになります。自分をいかなる他者とも平等な存在とみなす結果、人々は現実に残る不平等に対してより厳しい視線を向けることになります。また、その不平等は、一人ひとりの個人の自意識にとって、より痛切に感じられます。

不平等があたり前の貴族制社会から、平等を原則とする民主的社会への移行、その歴史の中でもやはり格差というものは解消されずに不平等さを残している。資本主義社会において富をつかみたいなら雇われる側から雇う側へ消費者から投資家へのスライドが必要だろう。今、政府が貯蓄から投資へと盛んに言っているが、これは乗らない手はありません。税制上の優遇措置に加え、キャピタルゲインによる資産の増加が望めます。もちろんリスクがないわけではありませんがインデックスへの長期積立投資なら分散投資の利点とドルコスト平均法による取得価額の平均化が期待できます。学生のうちにそのような知識を持って倹約して毎月一定額積み立てていけば社会人になってリタイヤを迎える頃にはひと財産築けるのですが、残念ながら我が国ではお金を稼ぐことは汚いことのようなイメージにより学校でもそのような教育がなされていません。真に貯蓄から投資へと移行を願うなら小学生のうちからお金の勉強をすべきかと。間違った知識により投機にならないよう注意が必要ですが。

デモクラシー(民主主義)のこれからを考える機会を与えてくれる書籍。暮らしの中で根付いてきたさまざまな壁を取り払い平等な社会を構築することは可能か?皆が自分自身で考え行動すればそれも可能かと。日本は一時期、一億総中流時代などと呼ばれた時期があったせいか格差に疎い。自身でその壁を乗り越える知恵を!!

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