人間の身に与えられた理性の働き「愛」により人生の目的たる「善」への希求が始まる。その道なりで必要となる努力こそ人生の真の意義。何によってその目的は達成されるのかという問いへの答えでもあるのが「愛」である。
学者たちの思い違い
人類の偉大な賢者たちの教えがすべて、その偉大さによって人々をあまりにも驚かしたために、粗野な人たちはそれらの賢者たちにほとんど超自然的な性格を与えてしまい、その教祖たちを半神と認めてきたという事実 これらの教義の重要性の主な徴候にほかならない事実 この事実そのものがまた学者たちから見るとこれらの教えのまちがいと時代おくれのこの上ない証拠(と彼らには思われている)をなしているのである。アリストテレス、ベーコン、コント、その他の人々のつまらぬ教義がその読者や崇拝者たちの少数の財産として常に残ってきただけで、その虚偽性のためについぞ大衆に影響を及ぼすことが出来ず、従って迷信的な歪曲や 贅肉 をつけられずにすんだのだが、そういう重要性のなさというこの徴候こそかえって彼らの真実性の証左とみなされているのである。一方、バラモン、仏陀、ゾロアスター、老子、孔子、イザヤ、キリストたちの教義は、それが数千万の生活を変えさせたということだけで、迷信であり、あやまりであるとされているのだ。
ところがこれらの迷信は 歪められた形においてすら、人生の真の幸福という問題に対する答えを人々に与えているから幾十億の人々はそれによって今日まで生きてきているし、またこれらの教義はすべての時代のすぐれた人々が抱いているばかりか、その思索の基盤をもなしているのに、学者派によって認められている理論は彼ら自身が抱いているだけで、いつも反 をうけ、時には十年とつづくことがなく、現われたと思うと忽ち忘れ去られてしまうのに、そんなことは一向に彼らを困惑させてはいないのである。
現代社会が追随している知識のこのあやまった方向は、古来それによって人類が生きかつ教育され、現在でも生きかつ教育されている人生のこれら偉大な教師たちの教義がこの社会で占めている地位ほどはっきり表現されているところはどこにもない。年鑑ではその統計欄内に、現在地球の住民たちによって信奉されている宗教は千にものぼると記載されている。これらの宗教の中には、仏教も、バラモン教も、儒教も、道教も、キリスト教も入っている。宗教は千もあり、現代の人々は全く心からそれを信じている。一千の宗教、それはすべてたわごとである。そんなものを研究してなんになるのか?
そして現代人たちはスペンサー、ヘルムホルツ、その他の賢者たちの最近の金言などを知らないと、それを恥辱と考えるくせに、バラモンや、仏陀や、孔子や、老子や、エピクテートスや、イザヤについては、時には名前ぐらい知っていることもあるが、それすら知らないこともあるほどである。なお彼らは思ってもみないことだが、現代信奉されている宗教の数は実は決して千ではなく、わずか三つ中国のそれ、インドのそれ、およびユダヤ・キリスト教のそれ(その派生であるマホメット教を含む)にしかすぎず、しかもこれら宗教の本は五ルーブリも出せば買えるし、二週間もあれば通読できるうえに、古来人類のすべてが生きる規準をなしてきているこれらの本の中には、ほとんどわれわれには知られていない七パーセントの例外をのぞくと、人類のあらゆる知恵、即ち人類を今日あらしめている一切のものがこめられているのである。しかし一般大衆はこういう教えを知らないばかりか、学者たちもその道の専門家でもないかぎりそれを知らず、本職の哲学者たちですらそういう本をのぞく必要はない、としている。まったくのところ、理性的な人間によって意識されている人生の矛盾を解決して、人々の真の幸福と生活を規定したこういう人々をなんのために研究するのか? 学者たちは合理的生活の根源をなす矛盾を理解しないままに、自分たちは見たことがないのだからそんな矛盾などあるわけがない、人間の生活はただ動物的存在にすぎないものだ、などと大胆にも断言している。
眼あきは眼の前に見えるものを理解し判定するが、盲人は自分の前をでさぐって、に手ごたえのあったもの以外はなにもない、と断定する。
人々がなぜそんなに宗教の経典に心動かされるのか信仰のない僕には理解できないが、好きなアイドルや俳優を推したりするのと同じような意味合いを持つなら少しはわかる気がする。1,000以上もある宗教の中では反社会的行動を容認するものもあり、その信仰自体が問題視される場合も多いがそれでも居場所を求めて人々は神を信仰する。神を何とするかによっても信仰の種類は分かれており様々なものが信仰の対象に。Apple信者などと呼ばれるものも進化した信仰の一つ?
現代世界の人々における意識の分裂
「よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう」(ヨハネによる福音書第五章二五節)。その時はすでに来つつあるのである。人は、生活は墓のかなたにおいてのみ幸福であり合理的なものであり得るとか、個人的生活のみが幸福であり合理的であり得るとかといかに自らを説得してみたところで、またはたからいかに説得されたところで、とてもそれを信じる気にはなれるものではない。人は心の奥底に自分の生活を幸福にしたい、合理的な意味のあるものにしたいという消しがたい要求をもっているが、実際には墓のかなたの生活とか、個人生活のあり得ない幸福とかいうもの以外に将来になんの目的ももたない生活は不幸であり、無意味なのである。
未来の生活のために生きてみるか? と人は自分に言う。しかし自分の知る限りでは生活の唯一の見本ともいうべきこの生活 自分のいまの生活が無意味なものにきまっているとすれば、ほかに合理的な生活があるなどとはとても納得できないばかりか、むしろ反対に、人生とは本質的に無意味なもので、その無意味な人生以外にはほかにどんな生活もあり得ないと確認してしまうのである。
では、自分のために生きるべきか? しかし自分の個人的生活は不幸であり、無意味だということになっているではないか。では自分の家族のために生きるべきだろうか? 自分の団体のためにか? さては祖国、人類のためにか? しかし自分の個人生活が不幸で無意味なものだとすれば、他のすべての個人生活も同じく無意味なのだから、したがってそういう無意味で不合理な個人生活をいくら無数によせ集めてみたところで、ひとつの幸福で合理的な生活が成立つわけはない。
自分が不幸であるとどんな教義を抱えていたとしても救われない。そんな心の隙間につけ込んだ商売や宗教がいまだにある。自身の気分が晴れるなら犯罪ギリギリのことも平気でできる輩が多数いる(時に犯罪そのものも)、それもいい大人がだ。分別のつかない哀れな人たちがいくら教義を信仰したところで救われることはない。
人生における問題解決の糸口となる言葉の数々。まずはその問題が自身の問題か社会の問題か意識することで解決方法も変わってくる。人生論という形で紡ぐトルストイの言葉は後世にも残すべきものの一つかもしれない。
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