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「禅マインド ビギナーズ・マインド」禅について知る入門書

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Appleの創業者、スティーブ・ジョブズが青春時代に読んだ、禅のバイブル。ジョブズの伝記『スティーブ・ジョブズ』のなかでも深い影響を受けた本として掲載されている『zen mind beginner's mind』の新訳完全版。禅の修行の指導書であり、禅による生活についてついての本であり、禅の修行を実現する姿勢や理解についての本です。

四種類の馬の話

ある経典に、四種類の馬の話があります。(雑阿含経典、大三十三巻<サンユクタ・アーガマVol.33>)四種とは、卓越した馬、優秀な馬、普通の馬、そして劣った馬です。(中略)この話を聞くと、誰もが卓越した馬になりたいと思います。卓越した馬になることはできなくても、せめて優秀な馬になりたいと思います。これがこの話の、また禅の通常の理解です。坐禅をすれば、自分が最高な馬か、劣った馬か、わかると考えます。しかしここには禅についての誤解があります。坐禅の修行は最高の馬になるためのトレーニングだ、と考えるのであれば問題です。だだしい方法で禅の修行をすれば、最高の馬でも、一番劣った馬でも関係ありません。

ブッタの慈悲を考えてみれば、自ずとこの四種類の馬に対してどう感じていたかはすぐわかるだろう。ブッタは、卓越した馬よりも、劣った馬に対して、より慈悲を感じたはずだ。坐禅の修行をする決心をした時、劣った馬は自分が不完全であるからこそ、道を求める心のしっかりした基礎ができるのだ。完全な正しい姿勢で座る人は、禅の本当の道、禅の実際の感じ、禅の真髄を見つけるのに時間がかかり、坐禅をするのは大変だ、と感じる人はより大きな意味をそこに見つけられる。時に卓越した馬は劣った馬かもしれないし、劣った馬は卓越した馬になり得ると考えるのだ。

禅と興奮

禅は、なにか興奮するようなことではありません。多くの人が好奇心から禅を始めますが、それでは自分自身を忙しくしてしまいます。修行によって、より悪い状態になるなど、ばかげています。坐禅を週に一度行おうとすれば、それで十分忙しいといえるでしょう。あまり禅に興味を持ちすぎるのもいけません。若い人が禅に夢中になると、学校を辞めてしまい、森や山にこもって坐禅を始めます。この種の興味は本当の興味ではありません。

落ち着いて日常の修行を行うことで自身の人格を強いものにしていくことができる。心がいつも気忙しいと、人格を作る余裕がなくなりうまくいかなくなる。人格を形成するには少しずつ段階を踏んで、そして適度な温度が必要だろう。次第に自分の適温がわかってくるものだ。あまり興奮すると、適温がわからなくなり自分の道を見失うことになり危険です。

定と肯定

坐禅を行うときには、なにも獲得しようと考えずに、ただ坐禅をします。なにかについて話すときには、一方の観念などを知的に表現しようとせずに、ただその肯定的な面か否定的面を話します。そして話を聞くときには、知的な理解でこうだろうと推測しようとせず、また一方の見解から理解しようとしないで聞きます。

坐禅は、形式を重んじるように見えますが、心は自由だ。毎朝同じように坐禅の修行をしていても、それを形式的であると呼ぶことはない。

もし、あなたが議論に勝ったと思うのであれば、その態度に問題があります。議論に勝とうとせずに、ただ聞くのです。ただ議論に負けたふりをするのも間違いです。話をするときには、たいがい自分の師の考えを受け売りしたり、また自分の考えを押しつけようとしたりしています。しかし禅を学ぶ人の間では、聞くことや話すことは、何の目的もありません。

私たちが聞いたり話したりすることは、挨拶するようなもので、このようなコミュニケーションを通じて自分たちの道を開いていくことができる。なにも言わないというのもいいことだがいつも沈黙を守りつずけるのも、理由づけとして不完全だ。大いなる心は、それについて話すのも行動するのも楽しむべきで、どんな問題も、大いなる心の表れであるとすると、そこに問題はなくなる。禅を学びたいとしたら、いろいろなすでに持っている観点や考えを捨ててしまい、ただ坐禅の修行をし、修行でどのような経験をするのか自分で見るべき。これが自然さだ。

もともとの仏教

「ほかの人は私たちを曹洞宗と呼ぶかもしれないが、私たちは自分をそう呼ばない。曹洞という名も使うべきではない」。どの宗派も、自分たちを別々の宗派であると考えるべきではありません。それは仏教の一時的な仮の形式です。しかし、さまざまな宗派が、このような考えを受け入れず、自分たちを特定の宗派の名で呼ぶ以上、私たちも曹洞宗という仮の名を受け入れなければなりません。この点は、はっきりさせておきたいと思います。実際は、私たちは曹洞宗ではありません。私たちはみな仏教徒です。私たちは、禅の仏教徒でもありません。ただの仏教徒です。もし、このポイントを理解すれば、私たちは真の仏教徒なのです。

自分たちの宗派の慣習を押し付けずただただ、仏教徒であるという考え方は新鮮だった。大学時代、坐禅の授業があったので身近だった〝禅〟。傾倒しているわけではないが学ぶべき考え方がそこにある。少し難解な言い回しも多かったが、入門書として傍に置いておくのも良いかもしれない。

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