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日本史サイエンス 蒙古襲来、秀吉の大返し、戦艦大和の謎に迫る|播田安弘

蒙古は上陸に失敗、秀吉の奇想天外な戦略、戦艦大和が活躍しなかった理由など日本史の3大ミステリーの裏側を考察しながら解き明かす。するとリアルな歴史の数字が見えてくる!

対馬・壱岐に侵攻した蒙古軍

10 月5日午後4時ごろ、対馬の左須浦(現在の長崎県対馬市小茂田浜)に突如、おびただしい数の蒙古軍の船団が侵入しました。対馬の守備隊は驚いて博多に急使を立てたのち、懸命に応戦しましたが、守護代の 宗助国 らが討死し、あえなく全滅しました。その後、蒙古軍は1週間にわたって対馬を蹂躙し、暴虐の限りを尽くしました。対馬からの急報が博多に届いたのは、上陸から7日後の 10 月 13 日でした。

続いて 10 月 14 日午後4時ごろ、蒙古軍は壱岐の海岸に侵入し、 樋 詰 城 を攻撃します。守護代の平景隆は城を守って奮戦しますがついに支えきれず、博多に急使を送って一族郎党とともに自害しました。壱岐からの急使が博多に届いたのは 10 月 18 日でした。

対馬・壱岐では、蒙古軍は武士のみならず島民も、赤子に至るまで虐殺しました。とくに女性は手の甲に穴をあけ、そこに縄を通して何人も繫げて 舷側 に吊るし、矢除けにしたとも伝えられています。その真偽はともかく、蒙古軍の残虐さは日本国内の戦いではありえなかったもので、日本人は大きな衝撃を受けました。いまでも対馬・壱岐には「モックリ(蒙古)」「コックリ(高麗)」と言うと子供が泣きやむ、という伝承が残っているといわれるほどです。

10 月 16 ~ 17 日、蒙古軍は平戸や鷹島を襲ったあと、 10 月 20 日早朝、ついに博多湾から上陸し、本格的な侵略戦を開始しました(図1‐8)。文永の役における、いわゆる「博多の戦い」の始まりです。

これに対して、博多の大宰府では 10 月 13 日の対馬からの第一報を受けて、総司令官の 少弐 資 能 は鎌倉に飛脚を立てるとともに、九州の御家人たちに博多に参集するよう命じました。 10 月 18 日に壱岐からの知らせも届くと、当然ながら、蒙古軍の大艦隊はまもなく博多に現れると予想されました。御家人たちは緊張のなかで武器や食料を準備し、国土防衛に向けて悲壮な決意を固めていきました。彼らが経験しようとしているのは、日本人にとっては初めての、他国からの大規模な侵略でした。

蒙古襲来では神風が吹いて上陸を阻んだという説を僕らが教科書に加え先生の口頭で習った記憶があるが、実際のところはわからない。日本が侵略されにくい島国という地政学上の有利さを持っていたがそれも無視した蒙古襲来。あえなく、2度の進行は失敗するわけだが、その謎に迫る。

ものづくりが起こした奇跡

ここで、もう一度、「蒙古」「秀吉」「大和」という3つのお題を見てみると、いずれも国難の時期にあたっていることにも気づきます。1274年の蒙古襲来は言うまでもありませんが、それからほぼ300年後の秀吉の時代、つまり戦国時代から安土桃山時代にかけては、世界では大航海時代と呼ばれ、スペインやポルトガルなどの西欧の強国が覇を競っていた時期でした。スペインは1532年にインカ帝国を滅ぼし、1565年にフィリピンを植民地にしました。オランダも1602年にインドネシアを植民地にしています。マルコ・ポーロに「黄金の国ジパング」と紹介されて注目されていた日本も、じつは植民地にされる危機にさらされていたとみられます。

こうしたなかで、1543年、九州の種子島に漂着したポルトガル船から、鉄砲が日本人に伝えられました。インカ帝国滅亡から 11 年後のことでした。すると、日本人はその有用性に気づき、すぐに刀鍛冶によって鉄砲が複製されました。なんと 10 年もすると、日本中に大量の鉄砲が普及していました。これを見てポルトガルやスペインは驚き、日本はアジアのほかの国々のように簡単には侵略できない、と考え方をあらためたようです。植民地となる危機を、ものづくりの技術が救ったのです。

さかのぼれば、蒙古襲来のときに元軍や高麗軍をとくに恐怖させたのも、第1章で述べたように世界でも稀な威力をもつ日本刀でした。軟鉄と硬鉄を組み合わせる高度な鍛鉄技術はその後の日本のものづくりの基本となり、鉄砲の複製もその延長にあるものだったのです。

そして秀吉の時代から300年後、今度は米国からペリー提督がやってきて開国を迫り、日本はみたび国難を迎えました。しかしこのとき、日本人は黒船に驚愕しましたが、じつはペリーのほうも、日本人を見て驚いていたそうです。

その理由の一つは、彼がそれまでに訪れた東南アジア諸国では、女性は男性の従属物のように扱われていたのに、日本では、武士の妻は毅然としていて教養があったからでした。教育水準が高く礼節を尊ぶ日本人に好感をもったペリーはまた、漆の蒔絵の硯箱を見て、蓋と本体のあいだに空気さえ入らない精密性や巧緻性、芸術品としての美しさに感心し、それを職人が粗末な道具で製作するのを見てまた驚きました。そして、日本は幕府の排外政策さえなければ、将来、ものづくりにおいて米国の強力な競争相手になるだろうと『日本遠征記』に記しています。

3度目の国難も、多くの志ある若者たちの命と引き換えに明治維新をなしとげて切り抜け、さらに日露戦争に勝利して列強の仲間入りを果たした日本が、みごとにペリーの予言を的中させたのが戦艦大和だったといえるでしょう。大和こそは、日本刀から連綿と続く日本人のものづくり技術の総結集であり、まさに日本人が起こしてみせた奇跡だったのです。

しかし、4度目の国難に際して日本人は、この奇跡を味方につけることができませんでした。それどころか、あろうことか自分たちがこしらえた「神」への捧げものであるかのように、大和を沖縄に特攻させてしまったのです。

戦後、よく言われるようになった、戦艦大和は「大艦巨砲主義の遺物」であったという見方は、誰も傷つけず、ただ大和をつくったことが悪かったのだ、と言っているようにも思われます。しかし、それでは意味のある教訓にはならないと思います。日本人のものづくりの力が起こしてみせた奇跡をなぜ日本の指導者たちは使いこなせなかったのか、本当に検証すべき点は、そこにあるのではないでしょうか。

当時の日本の技術の結晶だった大和が活躍しなかった理由が面白い。その勇姿を見ることなくあえなく沈没したその戦艦は人々に絶望を与えたかもしれない。歴史を紐解くとそこに数字にまつわるデータが示されることも多く後に検証され事実がわかるものだ。

日本の3大危機を改めて考える。島国で起こった侵略や天下を分けた戦。最大の建造物たる戦艦の仔細なデータを紐解くと新たな歴史が浮かび上がる!

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