人生で新しい事、つまり、まだ経験済みではない事。それは死ぬ事だ。養老孟司氏が自らの人生を振り返りながら、「死」について、「自分」について、「世間」について、「学問」について、「現代」について、「日本人」について、「考えること」について、そして生きるためのヒントを語りかけます。死からはじまる、目から鱗の人生論。本書は2004年にマガジンハウスから刊行された『運のつき』(2007年、新潮文庫)を復刊し、改題したものです。
決断を迫られた時、コンピューターに頼るか、それとも人間か?
医者で大病した場合など、手術か投薬治療か、迫られたりする事がある。五年生存率を告げられ余計混乱してしまう場合も。こういった場合コンピューターが弾き出した確率を信じるか、それとも全てを医者に委ねるか。最近ではインフォームド・コンセントとか患者の権利、カルテの開示とか色々やかましい事になってきているので医者の方も大変だ。僕ならコンピューターが弾き出した五年生存率よりも、「苦しむ時間がなるべく短い治療法で」とでもお願いするだろうか?実際大きな病気にかかってみないとその時の心境はわからない。死んでみないとわからないのと同じだ。僕自身〝死に対する恐怖〟はないが(実際自殺未遂も2回経験)死ぬ間際苦しむのは嫌。寝たきりなんて以ての外、なるべく長患いせずサクッと死にたいものだ。医者の方も手術が失敗した時、いちいち責任を感じたりしていては務まらない。そもそも病気は放っておけば死に至る場合もあるわけで、それを治療してくれるのだから有難い存在だと思わなけてばならない。五年生存率の告知は、患者のためというよりも医者が患者を助けられなかった場合、責任の度合いを緩和する緩衝材のようなものなのかもしれない。医者にとって「先生の判断にお任せします」というのが一番厄介なのかもしれない。
2度の臨死体験
死を扱っている本書だが、ここで僕の臨死体験を二つ紹介。一つはR246を自転車で走行中後ろから高速でトラックがやってきて僕の横をかすめていった時。このとき「あっ!俺死ぬかも」と思い、過去の友人や出来事などがまさに走馬灯のように頭の中をかけ巡る。ほんの数秒の間にだ。もう一つは自宅のドアノブにベルトをかけ首吊り自殺を図ったとき。このときはだんたん眠りに落ちるかのように気持ちが良くなり、これまた過去の出来事などが頭を駆け巡る。そして急に苦しくなり自分が首吊り自殺をはかっている途中だと認識。このあと苦しみもがいたことにより、ベルトが外れ助かった。首にはしっかりあとが残りしばらく消えなかった。死んでもいい、は「危険思想」だと著者。死ねば近しい人(主に家族など)は悲しむし、自殺などの場合迷惑がかかることも。それが発展し世の中への不満などと結びつくと大変なことになる、自爆テロや、無差別殺傷事件(大阪の池田小学校事件の犯人は裁判になると控訴せずに死刑になることを選び執行された)など喜ぶのはそれを煽った連中(自爆テロの場合、ISの指導者など)で彼らはのうのうと生き続けているのだ。
我、ことにおいて後悔せず
「我、ことにおいて後悔せず」。そんなことを古人がいったといいます。宮本武蔵『五輪書』です。それでしょ。すでにやってしまった以上は、その結果がよい方に向かうように、あとの人生を動かすしかないじゃないですか。済んじゃったことをブツブツいっても、いまさらはじまらない。
確かに後悔はなにも生み出さない、あるとすれば失敗による教訓を得るぐらいのものだ。僕は大学を中退しバイトに夢中になり、契約社員になって店長にはなったものの退職。その後も転職を繰り返し今は無職。生産性の低いブログと読書、ネットショッピングに明け暮れているが全部自分で決めたことで後悔はない。ある意味無職でこのレベルの生活が送れているのは奇跡だとすら思う。立ち行かなくなったら、そのときまた最善の方法を考える。
死について考えるところからはいる本書は、死のうと思ったことのあるすべての人に読んでほしい内容。きっと世の中を俯瞰で見れるようになり楽になること間違いなしです。
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