お金や名誉、色にこだわり周囲からの承認を得ることが至上命題な世の中に嫌気がさしたなら、読んでみてほしい。「いいね!」によって「私」が一括りにされる現代の「普通」がもたらす「しんどさ」から抜け出すヒントがここに。
「色、金、名誉」という躓きの石
さて、この「生活臨床」というムーブメントについて取り上げたのは、いじコミの具体的なコミュニケーションは、おおよそ、まずは「色、金、名誉」でその骨格を描くことができるのではないかと思うからです。もっと言うのであれば、いわゆる健常発達の人の人生の骨格そのものが、かなりの部分がこの「色、金、名誉」で説明できるのではないか、「色、金、名誉」を享受するための前提としての「体」(健康) をこれに加えれば、これ以外の何かをほんとうのモチベーションにして人生を生きることはなかなか容易ではないのではないかというのが、ここでの問題提起です。
つまり、健常発達の人のさまざまの行動の大部分が、この「色、金、名誉」で理解できるというのが世間的な人間理解の基本であって、そのいずれかがくりかえし人生の躓きの石になるのは統合失調症の人に限らないのではないかという問いかけでもあります。
犯罪がおこなわれると、精神科医は、その動機が了解できるかどうか、精神鑑定を依頼されて判断を求められることがありますが、動機が了解できないとなった場合には、それは無罪の理由になったりするわけです。逆に、明らかに「色、金、名誉」が動機である場合には、裁判官や検察官だけではなくて、弁護士も、動機はじゅうぶんに了解できる、つまりそんな事情であれば、そんなことをする人はいるよねと動機的にはみんなが納得するというコンセンサスがあります。
たとえば、借金で首が回らなくなっている人がいたとして保険金をそんなに関係の良くない奥さんにかけて殺してしまうとか、浮気の現場を押さえたご主人が相手の男性をゴルフのクラブで殴ったとか、「色、金、名誉」に関わることで事件が説明できる場合、自分がその場にいて同じことをやる気持ちになるかどうかは別にして、それはわかるということになって精神鑑定には普通は回ってきません。
逆に、たとえば、近所のラーメン屋さんが北朝鮮のエージェントで、そこから自分の家庭の事情が放映されているという理由で営業中のラーメン屋さんに押しかけて、椅子を振り回して暴れたとすると、これは精神鑑定の対象になります。この場合、動機は、明らかに普通の意味での「色、金、名誉」とは違います。
「色、金、名誉」という、つっかい棒が外れてしまうと、統合失調症を病む人では、何か「色、金、名誉」だけではうまく説明できないものが現れてきてしまうといえなくもないようにも思えます。
僕も何を隠そう統合失調症と診断された一人です。恋愛で躓き仕事でそれを取り戻そうと頑張り続けた結果、心をやられました。もともとそういう気質だったのか発症の原因は定かではありませんが。事件が起こるとよく精神鑑定をしますが、実際統合失調症にかかって、妄想に囚われ幻聴や幻覚、幻臭を経験した身としては責任能力がなくなるほどの症状というのはよっぽどです。たいていの統合失調症患者は責任能力を保ったまま過ごしているものです。僕自身一番症状が悪化した時(医療保護入院に強制的になった時)以外は責任能力を有していたように思います。
「いいね」を奪われたら存在できない
きちんと名指されることが世界のなかにちゃんとした場所を占める条件だとするならば、「空色のランドセルの子」がもう一人いることは、Bちゃんの「私」がばらばらにほどけて、その時その場限りの感覚に戻ってしまい、私たちの世界から溶け出してしまう可能性に晒されることにつながります。
そうだとすると、BちゃんのAちゃんを我が物にしようとする執拗さはむしろ自身のサバイバルに関わる避けがたい行為であったことになるように思うのです。
つまり、この図式が正しいのならば、Bちゃんのような健常発達の人にとっては、その人がこの世界のなかで、りんごやおっぱいのようにれっきとしたかたちでとりあえず存在するためには、一定程度の「いいね」をどうしても必要とすることになるでしょう。この「いいね」こそが、健常発達の人が、その場その時にしか存在しないものへとばらけてしまわないようにするかすがいなのですから、徹底的に「いいね」を奪われると、理屈から考えると、健常発達の人はこの世界にちゃんとは存在できなくなることが予感されないでしょうか。
「へ? 何言ってんの? 見ろや。おれは、ここにいるじゃん。『いいね』なんてもらわなくてもばらばらになったりせんじゃん、何寝ぼけてんの?」という抗議は当然あってしかるべきでしょう。
「俺」や「僕」や「私」が、おっぱいやりんごや本と同じような仕方で存在するのかどうかは、そもそも大問題で、少なくとも四〇〇年前のデカルト以来、この問題について、ああだこうだと、たくさんの人があれこれ言ってきました。「俺はここにいるんだからそんなことはどうでもいいじゃん、どうしてそんなことを考えないかんの」(最後の『の』は関西弁のイントネーションの反語口調を意識しています) という反論は生活実感としては至極もっともだと思うからです。
しかし、そもそも人が、「いいね」をもらえないとばらばらになってしまうようにできているのか、それともそれは単なる錯覚で、「いいね」なんか言ってもらわなくても、りんごやおっぱいのようにちゃんと世界のなかに存在しているのかという問題は、既読スルーといじめの例などを考えれば、人の生死に今も刻々と関係しているわけですから、必ずしもどうでもいいとは言いきれないことは間違いないでしょう。
「いいね!」やTikTokの再生数など世の中には承認欲求を満たすための指標がたくさんある。昔から「色、金、名誉」が指標であったように現代の指標がこれかと思います。僕もこの承認欲求を求めてInstagramを頑張った時期がありましたが、今は解放されています。それが本当に自分にとって楽しいものかと自問したときそうでなかったからです。今はSNSをほどほどにして趣味を優先しています。
普通であることを当たり前に享受しているとそれを振り回すようになり、他人にもそれを求めるようになったりして攻撃的になったりします。道から外れた人にとって普通であることの方が異常に見えたりするもので、自分の普通は他人の異常であることを理解しなければなりません。
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