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『間違いだらけの教育論』日本を貶めた5人の教育家とは?

ニセ教育論ばかりが、なぜもてはやされるのか?理想に燃える教育論は、どこでつまずいてしまうのか?本書は齋藤孝、陰山英男、「ヤンキー先生」、「文部省のスポークスマン」、ワタミ社長の各氏をはじめとする“カリスマ教育者”たちの議論を検証しながら、教育問題の正しい考え方を示していく。著者は教員歴40年のベテランで、「プロ教師の会」代表。メディアで活躍する教育論者の中では、現場を熟知する貴重な存在である。

子ども論の大間違い!

一九八〇年を越えたあたりから、さまざまな学校不全、教育不全と呼ぶべき事態が発生し、以来さまざまに議論がされている。「ゆとり」教育と「学力向上」主義との争いがあり、生き方や道徳性をどう教えるかという課題もある。ひきこもりやニート問題を抱えて、社会に積極的に参画する近代的個人をどう育てていくかが根源的に問われてもいる。結局は、土台のところで「学校とは何か」「教育とは何か」、そして「人間とは何か」があらためて問われだしたのであろう。みんないじめや不登校や学力低下やモンスター・ペアレントや不適格教師などを論じていながら、根底のところで(直接には論じていないが)、「学校とは何か」「教育とは何か」「人間とは何か」を論じているのである。おそらく、問題は三つの層としてあると考えたらいいのであろう。ひとつは、家庭や学校や教育の場に発生してくるそれぞれの個別的な課題として現れ、ふたつには、「消費社会」化にともなう「学校」と「地域」「家庭」とのズレとしてあり、三つめとして、「学校とは何か」「教育とは何か」「人間とは何か」という未完の根源的な問いとしてある。

子どもへのシステム的な教育は人が人になにか教える、あるいは人が自ら学ぶことができるようになるための教育である。それが啓蒙。「学校とは何か」と考えた時、それは社会生活に置ける最低のマナーやルールを身につけることという考え方がある。これはある種の国民的コンセンサスと言っても良い。その裏には社会的でない内面の私的な生活における私的個人の自由が当然想定される。啓蒙としての教育は、社会の歯車の一員としての自分、社会的な個人の育成を第一義とすることであり、それは個々の「自己」や「感情・感覚としての自分」や内的個人には立ち入らないということでもある。

教育論の大間違い!

〈学校とは、学力をつける場である〉と限定してしまえば、子ども(生徒)の学力以外の要素は目に見えなくなる。学力だけによって見える(表示される)子どもは数値や記号のようなものである。そして、学力以外の要素が見えなくなったときの学力は、もはや成績とか点数になってしまう。隂山さんの評価される理由が、卒業生(それも隂山さんの手を離れて中学と高校を経ているのだが)が国立大学に多数入ったとされることに基づいているのには必然性がある。隂山さんは学力と言っており、学力としか言いようがないのだが、ここで私の言っている成績や点数のことをイメージしているのは明らかであろう。学力というと、それを保持する子ども(生徒)の人間的な諸力とつながってイメージされるからである。つまり、学力なるものは数値そのものではありえないからである。

誰にとってもいい先生は可視化できるが、人生の師と仰ぐいい先生はそう思う生徒にしか見えていない。僕が中学の頃、部活の顧問をしていた先生は、僕が幽霊部委員になり結局退部したことを気にしていたらしい。妹が同じ中学に入りその顧問の先生が担任になるという偶然もあって、その心中を知ることとなったのだが、僕は顧問よりも部員同士の関係を築けなかったことで退部したのでその顧問の先生を恨んではいないしむしろ尊敬している。こうした例もあるように、いい先生とはそう思う生徒にしか見えていないというのには合点がいく。

教育理念の大間違い!

言葉で飾られた教育理念はいつでも完璧である。国家官僚(キャリア)たちはミスを突かれないように、このようなまわりくどいあらゆる点を網羅したお役所文書をつくって身を守っている。そういう完璧さや正しさをお役人が誇ったって何にもならない。国家官僚の自己正当化にすぎない。問題はそのような理念やめざされたものが現実のなかに入っていったときどうなったかなのである。二〇〇二年四月に「ゆとり」教育と呼称される新指導要領は実施となった。しかし、実際には全国どこでも前倒しで実施されており、とりわけ総合的な学習の時間に現場の教師たちは苦しんでいた。指導主事たちが学校へやってきて、「まだ、先生方は総合的な学習を理解していないのですか」と 恫喝 し、教師たちはますます萎縮するしかなかった。教科書のない授業で、「授業はするな」「生徒たちから学習課題を提出させよ」「指導しないで支援せよ」などと指示されても、ただ戸惑うばかりである。生徒たちが収拾がつかなくなって騒いだり、動いたりしても、指導はできないのである。

近頃の教育行政は、教師たちを将棋の駒のように扱おうとしている節が散見する。行政の思い通りに動く教師などは教育力がないと言っても良い。教師たちがここに持っている教育理念を生徒にぶつけるほうがよっぽど教育効果を期待できるのではないかと思う。お上から降りてくる教育方針の転換などに左右されない強い教育理念を個々の教師が持っていれば、今よりちょっと学校が良くなるのではと思う。

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